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ものもらいが治った

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おかげさまで、ものもらい、だいぶ腫れが引きました。
これで人前にサングラスなしで出られます。
私の中で「眼帯」はありえなかったの。
むき出しもはばかれるし、これじゃあ出かけられない、と悲嘆していたときに目に入ったサングラス。
そうそう、サングラスがあるじゃな~い?とまるで鬼の首を取ったかのように小躍りしちゃいました。
室内でもサングラスってところはヘンな人じみてますが、眼帯より数倍、いえ数十倍まし。
その目、どうかしたの?的な可愛そうな人間には見られたくなかったのです。
なんだか私は、人(他人)にあまり弱みを見られるのが苦手なようで、具合が悪くても笑っちゃうし、楽しく話せる。
人に悟られてはいけない、と強く思ってしまい、構えてしまうのです。
そのくせ家族には弱音を吐くし、疲れて物もいえない状態で、倒れるように寝てしまう。
これって何なんでしょうね。
弱みを受け止めてくれる家族がいるから、外で頑張れるのか、それとも外で頑張りすぎるから、家ではぐったりになってしまうのか。





私は小さい頃から、親に甘えることができない子でした。
できない、というよりも、させてくれない雰囲気の母でした。
泣き言や甘えは絶対許さない!と、どこかのスローガンを地でいく母で、子ども嫌いだと公言し、子どもの言うことは基本信じてませんでした。


「悩み事を人に話す人の気が知れない。悩みは自分で解決する物だ。
愚痴を言ったり泣き言を言う人はわたしキライ」



冷たく言い放つ母の言うことに従わねば、母に嫌われる、と子供心に恐れたものです。
ですが、子ども時代は泣いたりわめいたりしないことがなかなか守れない。

「明日の遠足、雨が降ってもお弁当いるんだって。」

「そんなことあるわけない。給食が出る。」

「遠足のつもりでいるから、出ないと思う。」

「雨やっても作るとね?おかしいやろ。あんたが間違ってるに決まってる。」



遠足の日は前から決まってて、給食のおばさんは来ない、といくら力説しても、母には通用しなかった。
小学校1年生の遠足の話である。
私は1歳の頃から記憶がわりとはっきりしているので、あのときの母のくるりをきびすを返すように見せた背中を泣きながら追っていって、お弁当がいると、しゃっくりを揚げながらわあわあ言ったのを覚えている。
母が作らないと言ったら作らないだろう。
そしてたぶんこの天気じゃ明日は雨に決まってる。
どんなに泣きわめいても母は背中を見せたままだった。
お弁当を持っていかなかったときのことは自分で考えないといけないのだ。



当日は雨、授業の支度をして学校に、お昼の時間は、各々が机の上にお弁当を広げた。
私は黙って、給食用のナイロンで作った栄養表の書いてあるナプキンを広げて、円形の栄養表をじっと眺めていた。
このまま、給食の時間をただ過ぎるのを待つしかない。
先生には黙っていよう。
お昼の時間が終われば、この問題は解決するのだ。
そしてお昼休みは、本でも読んで過ごそう。
栄養表を見ながら、手を前の方で囲み、先生に気づかれないように配慮した。
だがそれは甘かった。
昔は先生は一段高いところにいて、教室全体を把握しやすいようになっていた。
おまけにその日にかぎって、黒板に向かって左側にある先生の机の上で食べずに、真ん前の教壇で先生もお弁当を食べていたのである。


「Uさん(私の旧姓)なんでお弁当がないとね?また忘れたとね?」


小さい頃私は忘れ物のクイーンだった。
自分で自分の用意などできない子だった。
変なところはしっかりしているのに、そんな初歩的なところは無頓着で、母以外の人に叱られたってあまり堪えなかった。


「忘れたんじゃなくて・・・」


「忘れたんじゃなくて?」


「母が・・あとで持ってくるねって。」




ウソだ。でもウソつくしかない。
お弁当なんか作らん、と言い切ったんです、と真実を先生に伝えるわけにはいかない。
そんな冷たい母だとばれてはいけない。
お弁当がないことより、母がごく一般的な、子どもの連絡帳を見たり、お手紙を読んだり、子どもの話を聞いて、ご近所の同級生のお母さんに確認してくれるお母さんだと信じている先生も裏切ってはいけない。
私さえ何とかこの時間をやり過ごせば終わるのだ。
お弁当がないことくらい平気だから、もうこれで終わりで良いじゃない。


「変やねえ。持ってくるって、いつ持ってくると?もうお昼終わるよ。」


「でも・・・私いいんです。お弁当なくてもいいんです。」


「持ってくるって言ったちゃろ?だったら待たないかん。」


時間だけが虚しく、先生はずっと私のそばにいる。
クラスのみんなが私を見て成り行きを見守っている。

とうとう業を煮やした先生が、

「先生、Uさんのお母さんに電話してくるけん。」


あ、そんなことしたらいかん!
母にばれる。叱られる。
なんでお弁当いるって言わんかったとね?え?あれは言ったうちに入らん。
あんた泣きわめいたやろ?
ちゃんとはっきり伝えんと人は何もしてくれん。
自分がせんとだれがしてくれるね?
だったら自分でお弁当作りなさい。



私には母の声がこう聞こえた。
母はいつも自分で答えを出して、人の話は聞かないのだ。
答えは最初から決まってて、そうじゃないはずはないなんて、ハナから信じてない。
でも・・・先生が電話したからって、母が学校に来るだろうか。
ましてお弁当持ってだなんて、ありえんやろ。
寝とうかもしれんし、電話に出らんかもしれん。
それにかけよう。
神様、今日は私に味方して。



わたしの願いも虚しく、母は飛んできた。
先生は母と教室のドアの前で話をしていた。
教室中がしんとして、先生と母のやりとりは教室中にはっきりと聞こえた。


「お弁当があるなんて知りませんでした。・・・持ってくるなんて!
ないと思ってたから作りませんでしたよ。」


母の言っていることはウソじゃない。

『お弁当があるなんて思いも寄りませんでした。
娘はお弁当いるって言ってたんですね。
ちゃんと聞いてあげてませんでした。
ないと思い込んでしまって。
私が悪うございました。
次回から気をつけますので、本当に申し訳ございません。』

母が万が一でもそう言ってくれたら最高だったろう。


「Uさん?」

先生の呼ぶ声がしてどきっとした。


「あんた、うそついたんやね?お母さん、知らんかったって。先生ちゃんと話したやんね?お弁当がいるって。しかもお母さんが持ってくるって。うそついたんやね?」


背筋がぞーっとした。汗が出て、恥ずかしさのあまり、下を向いてしまった。
母が目の前にいる。持ってきてくれるとたしかに私は嘘をついた。
でもちゃんと弁当がいるとは話した。
話したのにお母さん、聞く耳持たんかったやない。
信じてくれんかったやない。
だけん泣いてしまったとよ。大声張り上げてお弁当がいるってわめいてしまったっちゃん。
でもお母さん相手にしてくれんかった。
仕方なく自分で何とかしようと思ったとよ。
ひどいやんか。
なんでお母さんは私のことかばってくれんと?
先生、違います。
そうじゃないんです。
母が知らんやったのは、雨でもお弁当がいることです。
私が一生懸命話しても泣きながらだったので信じてもらえんかったとです。
口頭じゃなくて、ちゃんと先生がプリントにしてくれたら、お母さんだって信じたはずなのに。
うちの母は私が思いつきで話したと思ったとです。
そして先生は、私が思いつきでお母さんが持ってきてくれるからって言ったと思っとう。
母のこと悪く思わんといてって思ったのがいけんかったと?
みんな嫌いやが。お母さんも先生も。




母は持ってきた。お弁当を。何が入っていたかは覚えてない。
でもみんなが食べ終わったのに、食べ続けるわけにはいかない。
早々にお弁当箱を閉めて、片付けた。
先生は食べ終わったと思ったらしく、私の側にまた来た。


「うそつきやね?ね?」



何度も念を押すように私に言った。
もう母には頼まない。そして嘘もつかない。
ひとり悪者扱いはこりごりだ。
自分ひとりでも生きていけるようになりたい。
自分でやらなきゃ、自分で。
誰も助けてくれたり、優しくしてくれたり、かばったりしてくれたりしないのだ。
人のせいにしては生きていけない。
ひとりでやらなきゃ。なんでもひとりで。





子供が生まれてみんなが里帰り出産や休み時の帰省予定などを聞いても、ずっとひとごとだった。

「実家はいいよねえ~ 楽だもん。」

ふ~ん。いいね。
うちは違うよ。実家に帰ると山のような洗濯がたまってて、

「映子チャン帰ってくるからしてもらおうと思ってためといた。食事の支度もしてもらえて楽やね。」

母は帰省というものは、自分が楽になると信じていたようだ。
住居と食事を与えるのだから、そのくらいのことはしてもらって当然でしょうが。
私は自分の仕事と思ってそのつもりで帰っていたから平気だった。
だいたい母は家のことはやらなかった。
母は仕事に没頭した。
母の情熱は素晴らしく、パートが数人の小さなお店のオーナーなのに、年商は1億を超え、私は東京の私大に出してもらえた。
父は仕事もせず、私たち子どもとオセロやダーツ、トランプなどをして遊び、面白い話を聞かせては喜んでいた。
お店のレジから引き抜いてきたお金をしょっちゅうお小遣いだと私にくれた。
両親はそのことでよくケンカしていたが、母には収入があったので、別にマンションを借りて別居していた。
母は昔から食事も作らなかった。
よく自宅に人を呼んでいたし、社交的だったが、家庭人らしいことは一切しなかった。
しない家事は私に廻ってきた。
それは母を支えるためと、優しくて面白い父のためだと私は自覚していた。
よくでかけ、帰りは遅く、いつもエネルギーを外に向けている母だった。




主人の実家では少し勝手が違った。
義母は料理を作ってくれた。
洗濯もしてやるから置いといて、と私に言った。
お風呂も沸かしてくれた。
なんでも自分たちのことはしている私は面食らった。
義母がしてくれている側で、できることは自分でやった。
料理も洗い物も、洗濯も。
義母には頼らないつもりだった。
義父は私がどんなにてきぱき家事をこなしても、気に入らないと怒った。
実母で慣れているので、怒られても怒られても、何とか自分で解決しようと頑張った。
でも義母はいつもかばってくれた。
少しずつ年月をかけて、私の肩の荷は下りていった。
主人もまた、私の家事をよく手伝ってくれた。
病気の時はできるだけ休んでくれた。
それでも私は甘えられずに自分の仕事だからと立ち上がって家事や育児をこなした。
そしてある日、倒れた。
動けなくなった私に、遠い日の母のことが重なった。
母が言いたかったこと、言わなければいけなかったことが、わかったような気がした。
日に日に症状が重くなって、とうとう夫は仕事に行くのをやめた。
フリーランスの夫が仕事に行かないことで数ヶ月、収入もなかったはずだ。
それでも主人は仕事に行かなかった。
私はいたたまれず這うように家事をこなそうとした。でもできなかった。
人に頼ることがこんなに辛いとは思わなかった。
私の症状は一進一退で良くなることはなかったが、歩けるまでには回復した。
主人は仕事に復帰した。
その頃には、主人が家にいるだけでいいと言った言葉を素直に行動に移せるようになっていった。
朝起きなくても、子どもたちは自分たちで学校に行ってくれた。
みんな私の寝室を覗いて、「行ってきます」と言って出ていった。
昼はほとんど横になったままだった。
だがもう罪悪感はなかった。
子どもたちが帰ってくる頃にはなんとか起きて、おやつなどを用意して待ってみた。
夕食は手抜きだった。
夜遅く帰ってくる上の子の顔を見ることはなかった。
下の子どもの話を聞いて一日終わったと言うと、主人は笑ってた。
上の息子たちとは僕が話し相手になるから。
起きて待ってなくていいよ。
主人はそう言ってくれた。




通院も4年目に入る。入院を勧められたが、断った。
優しい主人の側を離れるなんて考えられない。
子どものためにできることは限られているが、話を聞くことはできる。
弱みを見せまいと頑張ってきた私だが、今は甘え上手とまでは言わなくても、だらんとすることはできる。
だからこそ外ではより頑張れるようになった。
子どもの役員は同時に何人も掛け持ちした。
三役も委員長も、何回かこなした。
絵本の読み語りは9年続けることができた。
息子の野球の会計と子どもたちの送迎も毎週3年間、続けられた。
過酷な真夏日も、頬が切れそうな冷たい冬の日もグランドで手伝い応援した。
精一杯生きた子育ての時間。
甘えられるところができて、はじめて本領を発揮できたような気がする。
母は・・・甘えることができるところがなかったのだ。
自分が常に頑張らないと、誰も助けてくれなかったのだ。
母は自分の生き方を見せて、私にひとりでだって生きていけると教えたかったのだ。

しかしその母も途中で倒れた。

何もかも失ってしまった母だけど、昔のようなとげとげしさも失っていた。
父とは別居のままで、それでも仲良く食事も外出も一緒である。
商売とは別の生き甲斐を見つけ、子どもに最後まで頼らないよう心がけている。
母の強靭な精神力にはまったく誰も及ばないだろう。
70を過ぎての就職、福岡県のみではあるけど、千数百句の中から選ばれた俳句が大賞を受賞した。
二度目である。
私には母のような商才も文才もない。
だが母は私に言った。
映子チャンは立派な家庭人になった、私にはないものをみんな持ってたと。



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私が娘に伝えられる物はなんだろう。
母のようなユニークな性格でもなく、いいお母さんでもなく(娘の記憶の中では、私は寝てばかりいるお母さんらしい)、外で働くお母さんでもないし、母のようなずば抜けた才能もない。
ただ毎日何回もこう言ってくれる。
私が決して口に出さなかった言葉だ。





「お母さん大好き!お父さん大好き!家族みんな大好き!!」
by lamerveille | 2012-06-21 09:06 | 雑記